将来の乗り物ってよく考える方もいると想うのですが、
摩擦やエネルギー消費ができるだけないものという
方向性で夢想したり、想像したりするかもしれません。
おそらくそうなるかもしれませんが、その前に
地球との関わりを見直して編み直していかないと
こんなことも言ってられません。
そして、「移動」という概念自体がもしかすると
身体基準で、つくられたもので、
この概念に代わるものが、
というよりも、もっと「シンプルな理」が、
すでに宇宙にはあるのではないかと想います。
「移動」というより、「選択」に近い感じ。
そう有機的な想いの中での選択。
この場合、
ぼくらが考える時間という概念もないです。
この地球で適応されるかはわからないのですが、
これは意識のなかではすでに適応されている気もします。
なんだか漠然とした話になりますが、
昨日はずーっとそれに関わることが
ふっと、わいてきています。
* * *
もう人間サイドだけで考えることを
終える時がきているのかもしれません。
あなたは石をひろったり、花を摘んだりするとするなら
そうした繋がりの仲間に、交流して
尋ねたり、礼をつくしたりしていますか?
きっとそうした、交流を顕在意識までに
戻すことも必要になるかもしれませんね。
追記:
このところ「移動ではない」「行くのではない」という観覚があります。
「移動」という学びで何を味わったか。
すでにここにいる。
ここには自分でありもしたが自分でない自分からほどかれたわたしがいる。
* * *
自然、天体、宇宙との
自ら切断してしまったかのような
このつながりを
再確認して、
命の海から
想いの芽が噴出している
常に離れることがないゆえ
私たちの生き方も
宇宙に影響を与えている。
わたしは
素晴らしい波を
おくりつづけている