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humming planet

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我慢していたことに気づくこと。

じわじわっと変化している感じがするこの1週間。

息子の体調が変化して、嘔吐を繰り返しています。
病院にいくと、ウイルス性の胃腸炎かもしれないが、
よく検診してくださった結果、薬はいらないという結果に。
数分で診断を終え、薬をだす病院もあるんですが、
病院も変わって来ている気がします。
今日は午後から妻が仕事でしたので、
ぼくが変わって、息子の看病でした。
親として、息子のそばに入れる事は
こんな高熱の時でも幸せです。
こんな時だからこそなのかもしれませんね。
明日には、けろっとしているでしょう(笑)

さて、この数日、
過去のシステムは潜在的な
自由意志とはいえ、
「我慢」の学びだった気がします。
ブレーキを踏んでさまざまな時間を味わうという感じ。

ただ、
あまり巧く学びとして働かないのは
この我慢が無意識になされていることが
多い事です。

世の中、気づくと結構無意識に
自分が我慢していた事に気づくことがあります。


* * *


我慢というのは自らしないと
できないものです。
さらに、無意識に
しかも、それを好んでしていたりすることがあります。

追いつめられた現状があるなら
我慢している現状があるのです。

どこかしら
「力み」があることは、
張りつめている状態とでもいいましょうか。
とはいえ、
秩序が無くゆるいと
自我は暴走し迷走してしまいます。

ただ、よく、我慢をしている事に気づくと
我慢をしないことをきめるんですが、
あまり変わらない現状が残ってしまいます。
何かをしたり、しなかったりすることで
我慢から解放される事はあまりありません。

我慢をすることをしていたとしても、
同じ行為をしているのに
我慢から解放されることがあります。

自分の意志に気づくとでもいいましょうか。
するとその行為をしなくて済むようにもなります。
これは「自然にある」ことに気づくこと。
そこから離れた
ある視点では、「自然な在り方」といえるかもしれませんが、
本質からすると、
「常にある」ことになりますね。

我慢もせず迷妄することもない
ほどよい自然な流れがあります。
むしろ、我慢をしても、迷妄しても、
ここが常に本流であり、そうした現象は
流れのなかの戯れる際の摩擦のようです。
宇宙の柔らかい秩序からうまれたそうしてしまった
「かかり」です。係、引っかかり、懸かり、繋りです。

すべてはその宇宙の采配であるところが
自ずと一致してしまうところに
意志があります。

それに気づいて行く最中に
無意識に我慢をしていたことの
多さにきづいたりして手放してしまいます。
それと同時に、
新しいテキスタイルの織り方を
創造しています。

この新しい創造は
宇宙にとってはすでにある
テキスタイルですが
味わえるのは分光したこのボディだけです。

緊張を見つめ
弛緩で手放した動きの中で、
ここにあるのは
ほどよく調和された音
光であるぼくらです。
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by sanshiro-1973 | 2012-02-20 21:21 |
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