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humming planet

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それぞれの自然な命は美しくひとつに流れ込んでいる

ぼくはクリスチャンでもなんでもないのですが
今日、ふと「狭き門」(マタイの福音書)
あるいは「狭き戸」(ルカの福音書)の意味が感覚的に
わいてきた。
それはそれぞれの門ということ。
この門に実は、
難しとかやさしいとかいう
判断はない。

狭き門は与えられたいまある命。
的確でフィットしたドア。
(ただ、これは高次元からみた視点で、
3次元で見ると、「一所懸命」みたいな感じになってしまう)
ぼくらはある意味、ゲートであるともいえる。
本来、それぞれのゲートを歩まざるをえないんです。
それぞれの戸をたたいてそれぞれの道が
おおもとの命へと導かれる。

それでは、その狭き戸を通ることを拒むものは何か?

それはいつの間にか主人になってしまったエゴではないか!
つまり、自分自身。

自然となっていれば
それぞれがそれぞれの存在意志により
生きて
大いなる命に実りとして流れ込んでしまう。

それでは自然でない生き方とはどういう生き方であろうか?

幻想の轍はひろく
轍の溝にすっぽりはまっていることもしらない。
広き門を目指していると
狭き門つまり
すでに、ある自らが通る門を見失ってしまう。

ある意味、狭き門の扉は
自ら開けるよりほかなく
元から開いているものだが、
広き門の扉は
押しても引いても
自ら開けることはできない
霧の門、迷いの門なのかもしれないね。

人生は大きな流れのよう。
その淀みにはまって自らを
くるくるとループする葉っぱだと思いこむか?
大海へ流れ込み、またひとつの命として
一体であるみずみずしい流れそのものであるか?
どちらが
本当のぼくらなのかな?

な~んて、
ね。
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by sanshiro-1973 | 2011-11-07 12:54 | ダイアローグ
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