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humming planet

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ひかりのからだは無限大

数日前から前兆はあったのですが、
昨日からまたすこんと
とめていたものがはずれ
クリアーになった気がします。

* * *

この2週間、フレッシュ果物&野菜ジュースから
みかん2個から3個だけという朝食に切り替えて、
また、同時に整腸をこころがけていきました。
その成果がでたのか、
気管支の違和感がなくなりました。
治ったというより
進化している感じ。
決して戻るという感じではないんですね。
あらゆる出来事、しるしが、成長させてくださっている、
そんな気がします。

そして、昨日から、
深呼吸すると呼吸が以前より
深く、イメージいうと下半身まで行き届くようになりました。
これはとても感覚的なことなのだけど、
深呼吸できても、下まで行き届かないと、
中途半端な感じが残るのです。

そして、最後のひっかかりが、
丹田にはあるのですが、
そこが活動しはじめて
エネルギーをフローできるようになりました。

* * *

自分のからだを観じてみると
どこまでがからだかという
問をうみだす。
宇宙、全体性として
自分が機能しているから
身体というのは無限大になってくる。

からだ、こころ、たましいはひとつである。
からだ、こころ、たましいは宇宙である。
ここに常に整っている自然がある。

この誘導してくださった客観性、応え、
こだまは
より精妙になりひとつである。
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by sanshiro-1973 | 2011-10-29 05:58 | モノローグ | Comments(0)

ぼくらは美しいな。

きょうは早朝に新月を迎えて
日に日に輝いているような感じです。

空もなんだかキラキラして、
あらゆものがキラキラして、
ぼくが乗っている車も、
もうポンコツに近いのだけど
愛おしくて輝いていて
全然ポンコツじゃない感じです。

能動でも受動でもあり、
受動でも能動でもない命の在り方が
ある気がします。
そんな風に想う時は
ぼくはもうぼくではないんでしょう。

あらゆるものをハグして
能動と受動がうちけしあって
ひとつである結果から
ぼくらの普段の行動をみると
その行動もすべて美しいなと想うわけです。

このひとつの実りから旅に出て
元を忘れてまで
一生懸命分離した行動とは
どんなものであるか、
観じてみよう。

最近、耳鳴りに耳を澄ますんですが、
耳鳴りにフォーカスすると
耳鳴りだけの世界になってしまいます。
現実、ぼくのからだもその時、あるのですが、
その音が耳鳴りでなく光の摩擦音のように感じます。
かなりの存在感を感じるわけです。
それと同じように、耳鳴りがなっているのだけど
気にならない時は
違う世界にフォーカスをしているんですね。

ただ、どちらが本当の世界といえば、
どちらも本当で、
どちらもつくりだされた幻影だといってもいい。

すくなくとも
してしまう衝動だったわけだから、
観じてみよう。

それは自分のものだったわけだが
自分が所有できるものなんてないから、
やすやすと手から放れていってしまう。
放れていったあとには
美しい本質だけが残っている。

な~んてね。
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by sanshiro-1973 | 2011-10-27 16:31 | | Comments(0)

抽象スケッチ

この2日で黒点が減ったので
フレアーでも起こったのかな?
そんな感じがするけど、いつも見ているサイトでは
情報がとまってわからないけど。
身体の感じでは
23日あたり大きなフレアーがあったのではないかな。
違うか(笑)

さて、
この数日、ぐっとエナジーをためこんでいる感じだったので、
そんなときは向き合う事が多いですね。

整うという感じは
「自分だけキレイさっぱり」っていうムードではない
自分のかかわるフィールード全てが
クリアーになって行く感じだ。
以前にきいたことが智慧になって実っていたりもする。
インプットするだけでなくアウトプットしてまうところに
整う感じはあるのかもしれない。
受振発振同時みたいな感じ。
そして、「私の」とか、「誰かの」、
「あなたの」という感覚がうすれてゆく感じがする。
独立していると3次元ではいうんだけど
それはひとつという感覚に戻ってゆく感じなのかも。
しかも、無理して「なる」というかんじでなく
「ある」ということにフォーカスが自然と合う感じ。
これって、受動能動ではないんです。
それでいてとても創造的。

なんだか抽象的な感じになっちゃいました、
おやすみなさい!



追記:(10/25 11:00)
この数日、フレアーはなかったようですね。
違いました(笑)
黒点からフレアーになることが多いようですね。
身体の感じはなんなんだろう。
エナジーてんこ盛りになりそうな気配
もうちょっと感じてみよう!
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by sanshiro-1973 | 2011-10-25 00:16 | モノローグ | Comments(0)

愛をうたうことは自らを讃歌していること

日曜日も仕事なのですが、とても穏やかな感じが
街全体を包み込んでるきがするのは
休みが人に与えるやすらぎが
街全体を覆うからかもしれませんね。
この安らぎの時間に、
本来のあり方がひずんでいた場合
整ってくれるのかもしれません。

この数日、ぼくは自然の中に
凪のようなものを感じます。
それは日曜日の穏やかさに似ている感じですね。
ゆるされている地球を感じるわけです。
エネルギーを本来のあり方に
整えている感じともいえます。

それはぼくらも同じこと。
この穏やかさにどっぷり浸り、
整っている自分を
整っている全体を
感じてみませんか?

それはアプローチを変えると
愛をあらわしていること
この愛を歌うこと

愛を歌うことは
自らを讃歌することです

共に歌になってしまいましょう。
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by sanshiro-1973 | 2011-10-23 11:19 | 天使 | Comments(0)

今、こころとからだと魂が、整っている真っ最中です

前に、自分のまわりに、自分を含め
喘息発作が突然発症するかたが
増えている気がすると言ったことがあります。

それは地球や太陽の変化と
大いに関係があると想っていますが、
この気管支の調子のずれを見ていましたら、
今朝、丹田、大腸のあたりとも
関係があるので、はないかと
ふと想いました。
調べてみると東洋医学ではすでに
言われていることみたいですね。

丹田あたりに手を置いて
光を送っていますと、満腹感で、
眠りこけたようになっているわけです。
氷を溶かすように手で温めていますと
呼吸を忘れて眠ってしました(笑)

気管支や肺の直接的な不具合というより
身体の下の方の進化が喘息発作という
反応を作っているような気がします。

全体が今、考えているよりも、
不安にさいなまれて
それを薄い布のようなもので
覆い隠しているような気がします。
或いは
動きや行動にあらわせない
いらだちにも似た感覚もあります。

いまどんどんエナジーが蓄えられています。
もうすでにエナジーはにじみだしています。
エナジーのはみ出しが
なんらかの発作を作っているきがします。
ドカーンと内側から花開くのは間違いないこと。

自然と、
想うことを表にあらわしたり、
身体と魂とこころが「ある」ほうへ
整えられていることをあじわっています。



追記:
恩師の大津さんがまえに
蓮根とヨーグルトの組み合わせが
アレルギーだったかに
効果的のようなことを言っていた記憶があります。
今日、まさにひらめいたのが
乳酸菌と蓮根。
試しに、蓮根さんやヨーグルトさんの力を
お借りしてみよう。
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by sanshiro-1973 | 2011-10-22 15:36 | モノローグ | Comments(0)

重力を手放している一連の流れ

仕事で神戸に行ってきました。
ほぼゆっくりすることなく、会社の人と一緒でしたが
神戸ではとても穏やかなエナジーを感じてきました。
帰りはひとりでしたので、数時間だけ新神戸駅でくつろぎました。
この場所はなんか不思議ですね。
新幹線の横のエナジーと山からの縦のエナジーが
交差する感じです。
また来るかもしれないなと想いました。
僕自身、ほぼまったくゆかりもなく、今となっては
親戚もいないのですが、
考えてみると、神戸って、僕の祖母の出身地で、
父の生まれた所でもあるんですね。
だからかな。とても身近な感じがするのは。

さて、だんだん穏やかになっていますね。
太陽の黒点の数も増えて、おととい195。
エナジーが舞い降りて共鳴して沸き上がってくる感じです。
いろいろなことが起きていますが
一方で、ますます精妙になっているといった感じが
ずーっと続いていますね。

今日、想ったのは、時間という尺を使うと
「開花」という時期をまさにスローモーションで
体感している感じがします。
なんと表現して良いかわからないんだけど、
元から、ぼくらは許されていますし、許している。
で、この時期は
「手放す」という作業を大規模でしてしまっているんです。
これは、「ゆるしている」「フローしている」今にあることに
気付くということなんですね。

ぼくらが仮にさいなまれている「エゴ」があるとすると
「エゴをなくす」という行為自体
「エゴ」に力を与えている時なのかもしれない。
エゴがあたかも強大な力のように振る舞う感じですね(笑)
実際、そう感じて来た時代がながかったのですが、
ある時代やある時間という尺をもってくると、
こんな感じになっちゃう。

開きそうで開かない花が震えている感じ。
「エゴ」はこの命の花の開花を
受けとめている重力のようなもので
開花の時期には
自然と力が手放されてしまう。
そんな感じがします。
そう、すでに手放している今にあるんですから。
「待ちのぞむ」という行為も実は
重力で、これも自然と解消されていくと想います。
自然な流れは、
自分自身を観じる事、
自分を無化して、そのものであること、
そんな個々に起きている一連の流れであるようにも想えます。

大きく手放している
地球レヴェルのゆるしを
只今実行中しているような気がします。




追記:
22日14時 昨日の黒点は207に!
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by sanshiro-1973 | 2011-10-22 01:08 | | Comments(0)

常に相互で所有している光の種を育む喜び

先週から相互間で生まれる
エナジーの「衝突」と思える現象というようなことを
考えていて、
感覚をより明確に体感することが
昨日、ともだちとの会話の中で
言語化でき、身体化できた気がする。

おもしろいことに、あるものが
あるものとして顕在化する時に
すっと自分というものが離れ
いかに自分が滑稽であるかを笑い、
そして、精妙に美しくあることに、
この身は透明である。
透明、それはふりかえることも確認ということも
超えてあること、本質なのかもしれない。

さて、この会話の前までも、
エナジーの「衝突」に関する
応えをぼくはもっていた。それは、
「衝突」とよばれるものはないし、
弁証法的な昇華も元からないということだった。
「衝突」というのは受け入れないという
「抵抗感覚」、あるいは、自ら向き合わないことからうまれる
単なる「延期」というものだった。

ただ、今は少し進化して、
一見「衝突」と想える現象は
元から「実り」であって
実りを楽しめるか、実りを無視するかで
大きく現象の捉え方がかわってくるということだ。

例えば、コミニュケーションのブロックがあると想えた時、
どちらかがブロックを所有しているのではなく
相互で、「実り」を所有しているのだ。

「ブロック」を相手の中に見る時、
ぼくらは自分の写しである仮想「他者」(ほんとうはそれも自分)に
その原因をうみだし、責任をおしつける。
それは相手が変わらなければ、自分も変わる事が出来ないと
思っている「延期」をつくりだしているだけで、
それが自分が生み出そうとしている
美しい花であり実であることとは全く想えていない状態。

ブロックと想える現象が起こった時点は
(ブロックと想える時点では)まだ「つぼみ」の状態で、
この今にはすでに「花」や「実り」は存在している。
時間という尺をつかい
「つぼみ」の状態のみに焦点を創りだしているにすぎない。

というわけで
常に相互で所有している
光の種を育む喜びが
この今に、すべてのひとに与えられている。
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by sanshiro-1973 | 2011-10-15 22:41 | | Comments(0)

様々な部位とおもわれているものは、それぞれが相互に活かし合う主体で、全体

先日、喘息発作で点滴を受けたおかげで
いろいろ気付いた事がある。

まずは、先日も書いたのですが、
我慢もエゴであるということ。
この我慢にもつながるのですが、
身体の繋がりはエゴによりエナジーが滞るということ、
発作は、それ自身が、調和への過程だったこと、
そんなことを再確認しました。
意識していたことが、身体化した感じかな。
普段、呼吸を意識して生活していたので、
気がつかないところまでその発作で
気付けるようになった気がします。

まず、今まで基本的に7つのチャクラを意識して
エナジーの導線を考えていたんですが、
それはいいとして、
間接もとても大事なんだなと感じました。
鼠蹊部や肩、足首、膝、肘など。
また、発作の時、太陽神経叢に手を当てる事で
かなり落ち着いたので、気管支や肺のみに
フォーカスしても対処でしかない事にも気付いていました。
この発作によって導かれたのが、
様々な部位の集合体が全体でなく、
様々な部位それぞれが
相互に活かし合う主体であり
全体であり、
全体へのゲートであり
ハートであるってこと。

もう、吸入や点滴にたよったり、
対処法にもたよるのをやめたので、
真剣に身体に向き合う事にした。
こんな風に想えたのは食生活の変化による
好転反応だったのではないかと想う。
つまり、発作も好転反応。
ひかりの兆しだったのではないかな。

今日は、ヨーガのアーサナ(ポーズ)、
ハラ・アーサナ(鋤のポーズ)と
マツヤ・アーサナ(魚のポーズ)をしました。
ぼくはヨーガは詳しくないのですが、
ヨーガをやっている人なら
身体のつながりが大事なのは当然のことだろうね!

分かっていても、体感すると全然違うんですね。
あらためて、ひとのからだって素晴らしいね!
感謝です。
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by sanshiro-1973 | 2011-10-12 05:08 | モノローグ | Comments(0)

相互で生み出されている調和に、他者はいないのかもしれないね

今、いたるところから
このわたしからも、そしてみなさんからも
光のエナジーが
あらわれたり、おりてきたり、わいてきたりしています。
すべてを受けとめているということは
もちろんすべてを知覚することではないですから
知覚するということはたいして重要ではないと想いますが、
今までより、さらに知覚できるようなっている気もします。

すでに受けとめているものを
どう表現すかっていうのは
とてもおもしろいことだと想います。
ひとそれぞれのあらゆる表現は
ぴたりと息のあったダンスのように想えます。
表現っていうのはまさにエナジーのアウットプットで。
なのでエゴを差し挟まない純粋な表現というのは
ぴたりとしておだやかな調和ですね。
相互で生み出されるている調和です。
この調和は
まるまる一つの命が胎動している。
だから、
相互で生み出されている調和には
他者という概念は本来はないのかもしれないですね。
それぞれの人生はそれぞれが主役で
調和は個が創造するというよりは
ひとつの
ゆるやかでやわらかい無限の布ようで
そのたゆたうさまが私たちで
とても美しいのです。
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by sanshiro-1973 | 2011-10-10 20:38 | | Comments(0)

すでに、まるきっりそのものなんだ

自己責任というとき
その自己のフィールドは
どこまでひろがっているのだろうか?

多くの自己責任からは
感じる響きは
「自我責任」だったりする。

ここに命を燃焼している
喜ばしい責任がある。
燃焼すればするほど
軽くなり透明になる。

ひとりの人が宇宙であるというとき
その宇宙のフィールドは
どこまでひろがっているのだろうか?

あらゆる人のこころは
ひらかれている
今がある。
それはぼくがきみであると想う
今がある。
きみがぼくであると想う
今がある。

誰も救わなくていい。
自分も救わなくていい。
もちろん救ってもいい!

仮に救い、救われるなら
自らが輝き満ちていることを
観じてみることだ。
同様に、どこまでが自らであるかを
観じてみることだ。
どうように、きみも,彼も、彼女も
ぼくらも
自らが輝きに満ちている事を
観じてみる事だ。

救いのなかに輝きがあるのではなく
輝きの愛おしさ、
その副産物によって
救いが生み出されるのだ。

すでに救われていることに
気づくことから
してしまうことがある。
というのも、
すでに救われている宇宙がある。
その宇宙がしていることは
ぼくらがしていること。

ぼくらが創造していること。

後悔しない生き方は
調和がとれて
文句もこぼれることなく
命の喜びを燃焼し、
どこも痛まず、
何にも耐えることなく
合わせることもなく
なろうとうすることもなく、
常に命でありつづけることだ。

ぼくらは
あるになっている
わたしをどこまでも
あらわしている。
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by sanshiro-1973 | 2011-10-08 18:04 | | Comments(0)